『大人問題』五味太郎

子どもをとらえるまえに、大人について考えるために良い本でした!

大人問題 (講談社文庫)

大人問題 (講談社文庫)

 

◯そもそも「わかった」人間が「わからない」人間に教えていくという今の教育の構造が、全部まちがっているんだと思います。たとえば、文学をやってきた人間が「わたしはもう文学のことがわかった」、絵を描いてきた人間が「絵がわかった」っていうなら、その人、もうおしまいです。

 唯一あるのは、「わかりたい」子が「わかっていそうな」大人に聞くという構造です。それならまあ、性教育もなんとか成り立つのではないかと思います。

 たとえば、女の子を見てドキッとする、あの男の子が横を通っただけでドキッとする、これはいったいなんだろう、四六時中あいつのこと考えてるこの気分、なんかおかしいのかなあ、って。で、その子が耐え切れなくなって大人に聞いたときに、「そういうことって、わたしも昔ありました」という、そのひと言で少し前進できる。そういう苦しさとか不思議さとか、わけのわからない感じというのも、一般的にはあるということを知るのは、それなりにありがたいことです。

 その子は、その心のもやもや、体のもやもやについて意識している。「わかりたいな」と思っている。そういう学びたい、知りたいという、その子の必然ができてきたときに、はじめて「教育」というものが、現象として成り立つのだろうと思います。

 そのときにいちばん必要なのは「わかっている」人ではなくて、現役でやっている人、つまり今でも「わかろうとしている人」です。「人生、そこらあたりが問題なんだよね」と問題を世代を超えて共有できる人。そのことをいまだそれなりにやっている人間、音楽やってる人間、絵をやってる人間、文芸やってる人間、そして人生やってる人間が、学びたいと思った子どもには教材になるなと思います。教材は常に「いい教材」ばかりの必要もありません。P155,156

◯ぼくは子どもをとらえるときに、「新人」「ルーキー」という言葉でとらえるのが好きです。彼ら新人、ルーキーをずっと見ていると、なんかとても楽しいのです。自分もそうだったんだけど、「こいつ、これから何をするんだろうか」という感じの楽しさ。あるいは「いつ化けるかな」という一種の緊張感。そういう見方、とらえ方、つき合い方、この社会にはあまりにも少ない気がします。

 新しい人間、ルーキーが次々に出てくる一方で、おじいさんお婆さんはだんだん往生していく、その自然の流動がスムーズに行けばいいんです。大事なのは、その流れを阻害しないこと。それだけだとぼくは思います。p156